これを読んでいる人は、今現在ヘルニアや何らかの怪我・病気で辛い思いをしている人がほとんどでしょう。
この記事は、皆さんを勇気づけることを目的とした内容ではなく、私が椎間板ヘルニアと坐骨神経痛になってから働けるようになるまでを書いた記録です。
働けるようになった今でも後遺症が残り、腰痛に足の痺れ、夜中に足がつるなど日常茶飯事です。なので、「絶対治るから今は頑張れ!」なんて無責任なことは言えませんし、私は療養中にそんな言葉を求めていませんでした。
そんなことよりも、ヘルニアを乗り越えた人の「今」が知りたかったので、当時の自分に送るつもりで書いています。
❬自己紹介❭
- 2020年現在で32歳。
- 椎間板ヘルニアを発症したのが2014年12月の25歳の時。
- 当時の貯金は100万円に少し届かない程度。
- 当時の仕事はヘルニアになってから色々あり、自ら退職。
その後は、ある程度動けるようになってから職探し。すぐに仕事が見つかり、前職とは全く違う業界で現在も働いています。
2014年12月❬ヘルニア発症❭
軽く考えていました。
私は学生の頃から腰痛持ちで、整骨院に通ったり針治療などをしていました。
しかし、ある程度改善すると次にひどくなるまでは放置し、酷くなるとまた病院へ、ということを繰り返していました。
当時からヘルニアという病気の名前は知っていましたが、正直腰痛がちょっとひどくなったぐらいに思っていました。
そこまで真剣に考えていなかったので、本格的にヘルニアが発症したときは、思っていた痛みとのギャップに驚いたのを覚えています。
発症する数日前から、腰にいつもと違う痛みや違和感を感じてはいましたが、仕事の繁忙期ということと、希望していた役職へ昇進したばかりだったので仕事を優先してしまい、体のことはほったらかしていました。
当時は冬の寒さのせいもあり、朝起きると体はひどく固まっており、靴下を履くのも困難なほどでした。それなのにストレッチのひとつもせずに仕事へ。
そして、ある日ついに立っていられなくなる程の痛みが襲ってきました。仕事をこなしてはうずくまって痛みをしのぎ、休憩時間になんとか病院へ行くと【椎間板ヘルニア】との診断でした。
痛みで仕事にならないので早退し、上司へ報告すると、「痛み止めを打って明日からは出勤しろ。」とのことでした。
自分の健康管理不足のせいで周りに迷惑をかけるわけにはいかないと思い、(若く無知でした)すぐに痛み止めの注射を打ちにいきましたが、相性が悪いのか私には全く効きませんでした。
2015年1月❬ヘルニア発症初期❭1ヶ月目
地獄の通勤時間
翌日は足を引きずって出勤しましたが、仕事で役に立つわけもなく、サポートに徹していました。周りの仲間に無理を言って数日休みをもらい、いくつかの病院を周りましたが、当然すぐに良くなるはずもなく日に日に痛みが増していき、ついに【坐骨神経痛】による右足全体のしびれと痛みが襲ってきました。腰よりも足の方の痛みに苦しめられました。
全ての病院で、「現在は手術は主流ではなく、保存療法が主で自然治癒に任せる。まだ若いから手術はおすすめしない。安静にして痛みが引くのを待ちましょう。」と言われました。当然仕事は休みましょうと。
それを上司に報告すると「そんなわけない。昔は手術して2、3日で復帰していた!手術しろ!」とうるさかったです。この辺りから会社への不信感が募っていき、辞めることがちらつき始めました。
「医者が言っているので手術はしない。」と反論し、仕事も休めるようにお願いしましたが、管理業務だけはするように命じられ、ヘルニア発症から二週間は松葉杖をついて会社に顔を出しました。当時は自分が休むと会社が回らないとか思っていましたが、実際はそんな筈がなく、なんとでもなりますよね。
普段でも通勤に片道一時間はかかるところを、2時間かけて地獄のような時間を耐えながら通いました。
家から駅までは、危ないですが前かごに松葉杖を突っ込んで片足で自転車をこいで向かいました。歩いての移動は激痛で不可能だったので、自転車は早く移動できるというだけでもとても楽でした。
松葉杖をついているので電車では席を譲ってもらえましたが、座っているだけでも激痛が走りっぱなしです。さらに、乗る駅のエレベーターと降りる駅のエレベーターが遠く離れていたため、歩いての移動も困難なので階段を使いました。一度落ちかけてからは、諦めて遠くにあるエレベーターを使いましたが。
駅からは徒歩しか移動手段がないため、2,3歩歩いては休憩し、いつも10分で歩ける道を4,50分かけて必死で歩きました。
仕事内容はパソコンで1,2時間だけのもので、それが終えるとまた2時間かけて苦しみながら帰ります。
仕事を辞める決意
ある日のいつも大した話をしない形だけの定例会議の日に「座っているだけでも辛いので・・・」と休みを申し出ると、「自分の担当の報告だけはしろ。」と出席を命じられ、渋々足を引きずって行きました。
案の定、少しの間でも座っている時間が辛くて話がなにも入ってこず、時間が過ぎることだけを祈っていました。
脂汗が浮き顔が真っ青だったようで、会議が始まってすぐに、心配してくれた別の上司がすぐ帰るように言ってくれてすぐに帰りました。
帰ることができてありがたかったのですが、なんだか今までの苦労が虚しくてアホらしくて、なんでこんなに我慢しているんだと社畜根性丸出しの自分を情けなく思い、帰り道に辞めることを決意しました。
辞めると決めたら強気になれるもので、「休むからあとはよろしくー」と軽い気持ちで上司に報告し、長期休暇の申請と傷病手当ての申請を出しました。
傷病手当ては簡単に言えば、給料総支給額の2/3を最長1年半の間貰うことができる健康保険の制度です。総支給額なので、交通費も含みます。
私もこの時までそんな制度があることを知りませんでした。これからの休職期間を少ない貯金で過ごす不安があったので朗報でした。
仕事をすぐに辞めなかったのは、転職の経験が一度もなく無職になるのが怖かったということと、ヘルニアが治ってから新しい仕事を始めても満足に働けるか不安があったので、リハビリに利用しようと考えていました。
しかし会社に籍があるということで、上司へ週に一回メールや電話で現状を伝えなくてはならず、それがまた苦痛でした。医者の診断通りに「半年は療養が必要です!」と何度も伝えていましたが、報告する度に「手術しろ、入院して安静にしとけ、いつ治るんじゃ」など勝手なことを言ってくるのが相当なストレスで、いっそのこと今すぐに辞めて楽になりたいと何度も思いました。
※入院や手術は排尿障害のある重傷者だけだとお医者様に言われました。
まぁそれも、どうせ辞める会社だからと思うとどうでもよくなり、適当に流せるようになっていきました。ストレスになることには変わりありませんが。
2015年2月❬ヘルニア初期❭2ヶ月目
療養生活の始まり
そんな会社とのいざこざの中でも激しい痛みと戦い続けなくてはなりません。体力を消耗するのでお腹はすごく減りますが、ご飯を食べるときは座って食べることができず、楽な姿勢というものも無いのでうずくまって食べていました。
重度になると排尿障害が起きるそうで、幸いそこまでには至りませんでしたが、便座に座るのも辛くて何度も危ない思いをしました。
寝るときは私の場合、亀のように丸まっているのが一番楽で寝付くまではそれで耐えていました。
痛みで何度も目が覚めては亀になってしのぎ、寝ていても呻き声をあげていたそうです。
日中は動けないのですることがなく、病院へ行く・映画を観る・ヘルニアについて調べるの繰り返しでした。
当時は、私と同じ椎間板ヘルニアと坐骨神経痛で苦しんだ方々が書いたブログを読み漁っていました。動けずに布団で安静にするしかなく、時間はたくさんあったので、一日中スマホで「ヘルニア 辛い」「ヘルニア いつ治る」などを繰り返し調べていましたね。
検索すると、「必ず治るから今は耐えよう!」のようなプラス意見もあれば、「激痛に耐えることができず自殺する人も多い。」という怖い話もありました。当時は、自殺するという考えにも疑問はなく、素直に「これほど苦痛ならそんな人もいるだろう。」と受け入れられました。
死のうとは思いませんでしたが、足を切り落として楽になりたいとは、まぁ実行する勇気なんてありませんがずっと思っていました。
こんなに痛くて一歩もまともに歩けないのに、元通り歩けるようになるのかと不安が半端なかったです。
慣れるような痛みでもない終わりのない苦痛で、「昨日よりは少しましになっている」なんてこともなく、最初の2ヶ月間はずっと同じ痛みだった気がします。
病院選び 整形外科へ
発症してから楽になりたい一心で、周辺の病院を調べては電話で問い合わせ、その地域で有名な整形外科にたどり着き、しばらく通いました。
レントゲンしか撮っていなかったので、その病院でMRIを撮ることになったのですが、これが今まででもっとも辛い時間でした。
オープン型MRIという装置で、台の上に横になり上からMRIの装置に挟まれる形で30分間動いてはいけないのです。動くとやり直しだと。最初に楽な姿勢をとってくれていいと言われてもそんなものはなく。一番楽な姿勢って途中で変わるんですよね。
何度も「もー無理!!」と言いたかったですが、恥ずかしいからと気合いで押さえ込んで、頭の中は「もー無理もー無理」がぐるぐる回っていました。痛みで寝ることもできず、ただひたすら耐えるだけの地獄。
ようやく撮り終わると、そこに写っていたのは先生も久しぶりにこんな痛そうなのを見たという程の巨大で鋭利な突出物(ヘルニア)でした。
「あー、これは痛いなぁ。」という先生の言葉は忘れません。人と痛みを比べることは出来るはずもなく意味がないです。きっと今苦しんでいる皆さんも、自分のヘルニアが一番痛いと思っていることでしょう。そして私も自分のヘルニアが一番痛かったと今でも思っています。
そのヘルニアが右足の神経を突き刺して圧迫することで、坐骨神経痛という激しい痛みが現れていました。
整形外科での治療内容は、ウォーターベッドで水圧によるマッサージと、腰の牽引でした。あとは家で出来る腰を伸ばす体操を教わり、家でひたすらやっていました。
一ヶ月間、週に3,4日通い、ほんの少しだけましになった頃違う病院にも診てもらおうと、ペインクリニックへ行きました。これが私に合っていたのか、時期的に回復する頃だったのかはわかりませんが、みるみる良くなっていきます。
2015年3月❬ヘルニア中期❭3ヶ月目
ペインクリニックとの出会い
私が通っていたペインクリニックは、痛みを緩和して、痛みと上手に付き合っていくという治療方針でした。通い始めた当初は痛みはまだまだ強く、歩くこともできませんでした。
以前、整形外科で撮ってもらったMRI画像を持参して見てもらうと、やはりかなり大きめのヘルニアだったようで、まずしてもらったのは強力な極太針のブロック注射でした。
打つ前にかなり痛くて大人でも泣くと脅されましたが、坐骨神経痛の足の方が痛くて針が入ってくる違和感だけで痛みは感じなかったのは幸いでした。
打ったあとは体の感覚が鈍くなって立てないとのことで、30分ほど横になり、それから立ち上がると本当に足に力が入らず倒れそうになりました。痛みもかなり軽減し、始めに打った細い針の痛み止とは雲泥の差でした。
その日は久しぶりにゆっくり寝ることができましたが、翌日には痛みは戻っており、束の間の休息でした。普通は3日は効果が持つはずとのことでしたが、やはり痛み止とは相性が悪いのか効果はすぐに切れてしまいました。
ブロック注射は麻酔による痛み止めだけが目的ではなく、筋肉の硬直を緩和して血行を促し、症状を緩和することが出来るれっきとした治療方法のようです。
その極太注射は金額が高かったのですが、3回は打った方がいいと言われ続けましたが、多少痛みが和らいだかな?くらいだったので金銭的にも負担が大きく、以降はやめました。
そしてそのあとに出してもらったのが、痛み止の座薬でした。温湿布や漢方は整形外科でも処方されていましたが座薬は初めてで、最初は抵抗がありましたが使うと痛みがかなりマシになり、値段も安くて私にとっては最高の薬でした!
痛みが激しくなると座薬を使い、まだ先ですが働けるようになってからも痛みが出ると使っていました。
座薬のおかげで夜もゆっくり寝ることができたのが大きく、かなり楽になりました。
ヘルニア初期の「こんなの治らないだろう」という考えもこの頃から「少しずつ回復に向かっている!」と前向きに思えるようになりました。
2015年5月❬ヘルニア中期❭4~5ヶ月目
治療とトレーニング
私の通っていたペインクリニックでの治療は、以前の整形外科とは大きく違い、人の手によるマッサージと電気マッサージでした。
人の手によるマッサージは、担当者によって差が大きく、ここでだから言えますが当たり外れ(経験の差があるのでしょう)がありました。当たりの人のときは内心ガッツポーズでしたね。
この時はまだまだ歩くことはできなかったのですが、少しずつ良くなってきていることで先が見えるようになり、どんな仕事があるだろうぐらいの気持ちでいくつかの就職サイトに登録して検索していました。
仕事を探し始めると、転職に大きく気持ちが傾きはじめて、上司への治療の経過報告も面倒になっていたので辞めしまいたいという気持ちがどんどん大きくなっていました。
それでも、もし転職してすぐにヘルニアが再発したらと考えると、事情を知っている今の会社の方がやり易いのは確かなので、踏ん切りがつかずにいました。
上司には少しずつよくはなっていると報告していたため、この頃になると毎週のように「いつ頃復帰できる?」と聞かれるようになりました。すでにかなりの期間休んでいるので、まぁそれは当然の質問ですが、私からすると一番それを知りたいのは私自身であって、少しよくなったと言ってもまだ一歩もまともに歩けないので、当時の私はその質問も鬱陶しかったです。
上司の立場からその確認は必要とは理解していましたが、好きで仕事を休んでいるわけではないので療養に専念させて欲しいというのが本音でした。
五月の後半にもなるとゆっくりですが歩けるようにもなってきました。無理は禁物ですが、この頃から少しずつウォーキングとストレッチ、体幹トレーニングを始めました。ゆっくり時間をかけて徐々に歩く距離と時間を伸ばしていき、長いときには3時間歩いた日もありました。(遠くに行きすぎて帰ってくるのに時間がかかっただけですが・・・。)
ストレッチは、この頃から今現在も、朝起きてからと日中、夜寝る前には必ず行うようにしています。ストレッチをはじめた当初は、足を伸ばしてまっすぐ座る(長座)ことさえできないほど体が固くなっていました。
それが3年間毎日続けた今では、開脚して前に倒れていき、アゴが床につくほどになりました。
この辺りから、まだ痛みはあるものの、かなり回復してきた実感が出てきました。もうヘルニアのあの苦しみだけは二度と御免なので、先生とも相談して今ここでしっかり治すべきだという結果になり、あと一ヶ月様子を見ることにしました。
ヘルニア後期(6か月目)2015年6月
転職活動開始
6月に入り、かなり調子がよくなっていたので、仕事の復帰が近くなってきました。いざ復職するとなるとなんだか面倒になり(周りからの視線が怖かったのもありました)、ヘルニア発症した時の雑な扱いもあって特に罪悪感もなく、パッと辞めました。
卒業してからずっとその一社で働いてきたので、転職など考えたこともありませんでしたが、いざ外を見てみると働き口はたくさんあり、前職は手に職と言うような専門職だったので、辞めるときも上司に「他で働けると思うのか?」と嫌味を言われましたが、とてもワクワクしていました。
リハビリと並行して就職活動を行い、肉体労働の少なそうな接客業を中心に探していました。一度会社を辞めてからは社畜精神は抜け、「いつでも辞めたる!」ぐらいの気持ちでいたので、新しい仕事先はヘルニア完治までの繋ぎと考えていました。会社からしたら最悪な奴ですね。わざわざ言う必要もないだろうと、面接でもヘルニアは申告せずにいたって健康だと嘘をつきました。
何社かの面接を受け、運よく早い段階で決まり、そこそこ条件が良かったので実際は今もそこで働いています。
働き始めは、久しぶりのフルタイムだったので、体がなまっていて立っているだけでもかなり辛かったです。やはり腰や坐骨神経痛の痛みも出てきたので、家を出る前や会社に着いてから座薬を使っていました。
2週間ほど隠していたのですが、重い荷物を持つことも多く、このままでは再発してしまうかもと思い、同じ部署の人達には打ち明けました。すると、「もっと早く言ってくださいよ!」(ほとんどが年下だった)と心配してくれ、軽作業に回してくれました。
やはり周りに迷惑を駆けるのは気が引けるので無理をしてしまいましたが、症状が軽くなって気が抜けていましたね。あの苦しみを忘れずに徹底して再発は防がなくてはなりません。
当然、会社によると思いますが、受け入れてくれた会社の人達には感謝しています。
最後に
転職も無事成功し、現在はヘルニア発症当時から付き合っていた女性と結婚して子宝にも恵まれました。
しかし、常に再発の恐怖はあります。今でも日常生活に支障はありませんが、常に腰には鈍い痛みがあり足にはしびれが残っています。なので、朝起きたときと寝る前には欠かさずストレッチをしていますし、腰に負担がかからないよう日々意識しています。
ヘルニア経験者に聞くと数年おきに再発するという人もいるので油断はできません。
ヘルニアには完治はないとも言われていますので、これからもこの病気と上手く付き合っていかなくてはなりません。
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